駅開業当時の様子 ~羽鳥駅の今むかし③

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小美玉市にある唯一の鉄道駅、羽鳥駅(JR常磐線、同市羽鳥、1日あたりの平均乗車客数は1797人[*1])の新駅舎が2020年2月に完成。2021年3月には駅周辺整備事業も完了しました。このシリーズでは羽鳥駅にスポットを当て、さまざまな角度からレポートします。

*1 2020年度国土交通省調べ、降車人数は含まず

新しい駅舎は橋上駅舎で、東西自由通路と一体化しています。駅の東口と西口を楽に行き来できるようになりました。東西の駅前広場も広くなり、駅周辺の様子が大きく変わりました。この機会に、同駅と周辺地域の昔の様子をたどってみることにしました。

同駅の開業は1895(明治28)年12月1日。当時の日本鉄道(設立1881年、1906年に国有化)が友部から土浦間の土浦線を開通させた後、約1カ月遅れて開業しました。昭和初期までは羽鳥停車場と呼ばれていたそうです。開業当時の時刻表によると、1日の運行本数は上下線合わせて8本。羽鳥駅から隣の石岡駅間の運賃は最も安い客車でも5銭で、当時の米1俵の代金より高く、所要時間も12分間と現在の2倍以上かかりました。駅の利用客は列車1本あたり数人しかいなかったそうです。駅の西側は少し離れたところに数件の人家がある程度で、東側はマツやクヌギの林が広がっていました。

大正期の末まで、同駅が開業した12月1日は記念日としてお祝いされ、芝居や見世物の小屋が立ち、花火が打ち上げられたそうです。当時駅近辺にあった小学校では、羽鳥駅が遠足の行き先になっていました。汽車を見学するためでした。

※開業当時の時刻表 表紙(複写)

戦前までの同駅は貨物運搬を目的に使われることが多く、周辺地域でできた上質の薪や炭はここから都市部に運ばれました。江戸期には現在の同市小川や隣接する石岡市高浜にあった船着き場から水運を使って江戸に送られていましたが、明治期に鉄道が開通すると、羽鳥駅から貨物列車で運ばれるようになりました。1923(大正12)年、同駅西口近くに高く積まれた薪を撮影した写真が残っています。薪の山は階段状に作られ、一つの山は高さ5間(約9m)、底面はタテ6間(約11m)ヨコ7間(13m)だったといわれています。当時、十いくつの薪の山ができていたそうです。

※大正期に撮影された薪の山(川又忠志さん文子さん蔵)

駅前地区に住む80歳代の男性によると、薪を束ねる作業は茨城弁で「まるく」と言ったそうです。束ね方を教えてくれました。まずマツ、クヌギなどの薪3、4本で小さい束を作ります。それを5、6束集めて大束を作りました。「薪をまるくのは女性の仕事。それぞれ薪をまるくための荒縄(長さ約1mに切ったもの)をたくさん腰に下げていたね。荒縄は風雨にさらされると腐って切れてしまうので、時々まるき直さないといけない。高く山積みにするにもコツが必要で、慣れた男性が担当していたようだね。写真の山の上にいる人はきっとその役目をする人でしょうね」。

※よく見ると薪の山の上や下に作業する人の姿が写っている(上記写真拡大)

写真所蔵者の川又文子(あやこ)さんは、曾祖父・利八さんが始めた運送業について話してくれました。「私の家は昔、薪や炭を扱う仕事をしていたので、鉄道を使ってたくさんの品物を運んだ様子を家族から聞いていました。私が子どものころ(1960年代)にも、駅前には大きな倉庫がいくつかあり、近くに住む子どもたちはその間を遊びまわっていました。私もいろんな遊びをした記憶がありますね。でも、今は車の通行量が増え、子どもが自由に遊べるような場所はなくなってしまいました」。戦後、文子さんの父・三郎さん(利八さんの孫)は農機具の販売と整備をする会社を始めました。文子さんは夫の忠志さんと共に会社を引き継いでいます。「今回初めて、写真の中に人が写っていることに気が付きました。たくさんの人が薪の運送に関わっていたんですね。私にとっても家の歴史も知ることができる大切な資料。大事に保管していきたいです」と話していました。

※今も駅前に残る、戦前に建てられた蔵

駅と周辺地域の歴史をたどり、住民の皆さんを訪ねてみると、それぞれの思い出話を聞くことができます。活気があって、賑やかなまちの様子が思い浮かびました。今の子どもたちが大人になったとき、どのような思い出話を語るのか楽しみになりました。

参考文献
『美野里町史(下)』発行:平成5年2月 編者:美野里町史編さん委員会
『美野里の文化 第2号』発行:平成4年3月 編集:美野里町郷土史文化研究会

資料(駅開業当時の時刻表複写)提供:小野剛さん

新駅舎と東西自由通路完成  ~羽鳥駅の今むかし①:
  https://townjournal-omitama.com/2021/12/17/m00001/
「いままでありがとう!羽鳥駅舎」お別れ会開催 ~羽鳥駅の今むかし②:
https://townjournal-omitama.com/2022/01/07/m00003/

語り伝えられてきた、おだんキツネの話~羽鳥駅の今むかし④
語り伝えられてきた、おだんキツネの話~羽鳥駅の今むかし④ (townjournal-omitama.com)

  • コメント ( 10 )

  1. overs24

    羽鳥駅前が薪の山だったとは!
    貴重な記録ですね!

    • 瀧澤比佐乃

      overs24様

      コメントありがとうございます。
      私が子どもの頃は、もう薪の山はありませんでした。
      父の話では、羽鳥駅にも引き込み線(線路)があり、たくさんの荷物が積み下ろしされていたそうです。

  2. サイトウトモユキ

    羽鳥駅については、乗降は有りませんでしたが、羽鳥駅の水戸寄りに美野里役場の出先事務所が在ったのを覚えています。記事中の川又さんに関係する農機具屋さんへ平成の初期に電話回線の工事でお邪魔したことがありました。電話の端末はメーカー系の業者さんでした。

    • 瀧澤比佐乃

      サイトウトモユキ様
      コメントありがとうございます。
      羽鳥駅、ぜひまたいらしてみてください!
      夕方、間接照明が灯る頃の駅舎と、自由通路から見える空と山並みがとてもきれいです。
      小美玉の「映えスポット」の一つです!

  3. 旧八郷町民

    駅前にあった石碑はどこへ移動したのでしょうか?どなたかご存知ですか。あの石碑に御先祖様の名前があったもので。本来もっと海側に作る予定だった駅を今の場所へ引っ張ってきた方々の記念碑と聞いておりました。

    • 瀧澤比佐乃

      旧八郷町民様
      コメントありがとうございます。
      明治44年に造られた「庭園造設記念之碑」が残されています。
      現在は西口広場、ロータリーの最南端の線路脇に移動されました。
      裏面には協力者約200人の名簿があり、旧堅倉村、旧竹原村、旧園部村の方のお名前が連なっています。
      この石碑も住民の要望があって残されたようです。

  4. かが

    芝居小屋!なんか当時の様子がわかるといまの新駅舎をみるときの気持ちも変わって感慨深いですねー。すてきな記事をありがとうございます!

    • 瀧澤比佐乃

      かが様
      私も芝居小屋の話には驚きました。
      こんな小さなまちに、時代劇でしか見たことがない芝居小屋が建っていたなんて!と。
      昔は、現在とは違った豊かさがあったように思います。

  5. 藤井孝一

    かつて「芝居」は身近な娯楽のひとつであったようですね。
    なにかのお祝いの際、余興として芝居を行ったという話をよく聞きます。
    昔は旅芸人などもいて、地方を巡業として廻っていたようで、それらが民衆の楽しみであったようです。

  6. 瀧澤比佐乃

    藤井孝一様
    コメントありがとうございます。
    きっと、当時の人々は旅の一座の公演を存分に楽しんでいたんでしょうね。

瀧澤比佐乃

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